top of page
お店外観2.jpg

バブル期の新入社員

 

平成元年就職組のさかいち。
世の中バブルの真っ只中でした。
うちの学科でも一人に対して求人が47社あるとのこと。
そのためにさかいちの成績では入れないような
自動車メーカーに入社できました。
しかも会社側の要求数に学生の数が満たないという、

今では考えられないような状況でした。


入社一年目の半年は新人研修、

後半も生産ラインの手伝いなどでまあそんなに仕事らしい

仕事はしてませんでした。
工場実習という名のライン作業はかなりキツくて、

終わったときには帰りの送迎バスで
「バンザーイ」
と大声で叫んでました。

 

翌年は「後輩を引っ張って来い!」と接待費を渡され、
大学の研究室に挨拶をして後輩に酒を飲ませて終わり、

なんてこともやりました。
仕事も忙しかった。

入社二年目で自分も大して仕事を覚えてないのに

後輩と仕事を分担して、その後輩が事故を起こして入院して、そのフォローで一日電話連絡で動けず、図面は朝早く来て書いて、残業時間でまた書いて、なんて日々でした。
それでも「忙しい」ということがありがたいことだと知るのは、
そんなに先の話ではなかったのです。

28歳の無謀

 

入社5年目、翌月2月中に独身寮を出なくてはなりません。
寮費と普通の家賃の差はかなり大きいです。
さかいちが9歳のとき父親が買った建売の自宅は、

11歳の時に父が亡くなったことによりローンは一切なくなっていたのですが、

築20年でかなりガタがきていました。
一人で暮らす母親から

「あちこち床がへこみだしたよ、どうする?」

と連絡があり、どうしようかと悩みました。
一時と違って仕事はそれなりにあるし、ようやく慣れてきたところでもありました。
しかし心の奥でいつも独立を考えていたさかいちは、
このままこの会社に、この地方にいる、という選択肢は考えられず、会社にいる間に住宅ローンを組み、
家を建て、会社をやめてしまいました。
住宅ローンを組んで、無職。
28歳の時の自分は今の自分よりもさらに無謀でした。

バブルはじけて

 

入社4年目、バブルがはじけました。
会社に行っても仕事がない。
残業もゼロだから遊びに行くお金もない。
内緒で牛乳配達や家庭教師のアルバイトもやりました。

先輩や現場からくる仕事を後輩に可能な限り渡して、

自分の仕事をなくしてしまってました。
自分が仕事を抱えて、後輩に忙しそうにみせて、

後輩がポカーンとしているところもあり、
それは自分にはできませんでした。
資料棚の整理をしていたら、

「誰にことわってこんなことやってるんだ!」

と怒られたこともありました。
そうなってくるとこういう考えになりました。

「自分は会社に必要ないんだなあ」

会社で仕事が無いつらさを始めて味わった年でした。

派遣業

 

地元に帰ってきたのはいいのだけど、仕事が無い。
当時技術者のアウトソーシングが盛んになりだした頃で、
さかいちも一ヶ月だけの無職期間を終えて、派遣になりました。
時給契約で怪我とか病気で休むとその間の収入はゼロ。
契約を切られたらまた無職。
今は色々騒がれていますが、当時は普通にやっていました。
健康保険とか確定申告とか全て自分でやらなければなりません。
この時に青色申告の仕方とか覚えました。
後になってこの経験が効いてくるわけですが。

アメリカ大手の半導体製造装置の仕事をしていたのですが、

休まず働いていたら給料は年収で100万以上上がりました。
そのため、ゴルフだのボーリングだの飲み会だの、と同じ派遣仲間や社員と一緒に遊びまくりました。
このときの方がバブルだったのかもしれません。

そんな契約は3年半で終わりました。
派遣会社の担当者は新聞広告の切り抜きを持ってきて、

「こんな仕事があるけどどう?」

と言いました。あきれて声も出ませんでしたねあの時は。
結局その後半年クレーンの会社に派遣されましたが、
その後半年で派遣は全員契約を切られてしまいました。

さて、どうしよう?と思った33歳の時です。

bottom of page